って疑ってしまいますが、人命より雇用経済を選んだって事に
なんか、日本人らしい結果だな・・・とも思ってしまいました。
(アタシも思いっきり日本人なんだけど…笑)
震災後の選挙だっただけにね・・・やるせない気持ちもあります・・・
更にアメリカの植民地NIPPONになってしまわなければいいですね
益々、自分の将来は自分でって気持ちが強まりました・・・
どこが政権取ろうとも自分の信念や意思は変わらずに・・・これが第一ですね。
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また前置きのぼやきが長くなりました~(笑)読み流しちゃって下さい~
久々の奇人・変人のコーナーです~
忘れていた訳ではありませんが前回のウ○コ先生で
すっかり力尽きてしまい(笑)間があいてしまいました
前回のウ○コ先生、未だお読みになって無い勇気のある方はどうぞ
今回、私の餌食となったお方は
植村直己さんでございます
この偉大なる冒険家を奇人・変人と呼んでいいものかとも思いますが
1970年5月に日本初のエベレスト初登頂
同じ年にマッキンリー世界初の五大大陸最高峰登頂
など数々の記録を作っています
山の記録も凄いですが私が1番に奇人と思うのは
犬ゾリで北極圏を12000キロも横断したという事実です
だいたい日本列島の長さが3500キロと言われてるので
それを考えても物凄い距離ですよねしかも犬ゾリですから・・・(笑)
約1年半、犬と自分しか居ない世界
回りに見える景色は氷の世界ばかり
楽しかったんだろうか・・・・・・・
氷の道と言っても平坦な道ばかりでは無く
針のようになった氷の道もある
そんな時は自分も、そりから降りて自らソリを動かさなくてはならない
時には犬に逃げられたり、食糧と言えばアザラシなどの凍った肉など
食糧不足で数日食べずに過ごした事もあったとか
そこまでして冒険に駆り立てられる理由は・・・
きっと、理由なんてなかったのかもしれないですね
新しいものを見たい挑戦したい
そんな純粋な気持ちのみで冒険に出てたのかなとも思います
でも、普通はそんな気持ちがあっても
犬ゾリで12000キロは挑戦しませんけどね~(笑)
そんな偉業を成し遂げてる方ですが
の本を読むと、こんな人がどうして、これだけの凄い事が
出来ちゃうんだろうと思うぐらい、植村さん本人は
決して人の上に立つようなリーダー格の人では無く
どっちかと言うと目立たず地味な方だったそうです
この本、登山の事も勿論書かれてますが
世界の山に登られてる方なので
当時のインドやネパール、アフリカ、フランスなどの事など書かれていて
山に興味無い方でも面白く読めると思います
その中でキリマンジャロに挑戦する前の晩に
アフリカ女性と一夜を共にするエピソードが書かれてるんですが
これがまた人間らしくて良いんですよね・・・
数回、植村直己記念館には訪れていますが
今年2月に行った時は植村さんがマッキンリー登頂をして
その後、消息不明となり遺品として見付かった物の
展示がされている期間でした
1984年2月12日(この日は植村さんの43歳の誕生日だったのです)
マッキンリー登頂の時に山頂に立てた日の丸
捜索隊が三ヵ月後に回収に行った際に木綿製の日の丸は無傷でしたが
物凄い風雪に耐えられず化繊の星条旗はボロボロだったそうです
MADE IN JAPANはさすが
今はもう中国製だからダメかな(笑)
登頂した後に、無線が繋がらなくなり
登頂した次の日の2月13日が命日とされています
マッキンリー5200m地点の雪洞で見付かった物
以下の写真も同じ場所で見付かった物です
手袋
ミトンの手袋は乾かすために裏返してある
登頂後に同じ場所に戻ってくる気持ちがあったからこそ、そうしたのでしょう
手袋には毛糸のほつれを自分で直した後があります
コンロ、コッフェル
昨今の山用品は凄く優れて進化してますが
植村さんの時代は手袋を見ても分かるように
毛糸です・・・
そんな時代に登ってるんだから、やっぱり凄いの一言ですね。
ヤッケ(ウインドブレーカー)
この日の展示物は最後の遺留品の展示で、マッキンリーに登頂する
数日前の映像もビデオ上映されていて元気にインタビューに答えている
植村さんの姿を見て切ない気持ちになりました
マッキンリー4200m地点の雪洞で見付かった日記
マイナス30度を越える寒さの中で書き残した日記
そして、最後の日記には・・・
ヘッドランプはアタック用に使いたいから少し節約。
何が何でもマッキンリー登るぞ
生々しいですね・・・
マッキンリーは以前にも登ってる山でもあったし
まさか、ここで亡くなるとは・・・と誰もが思った事でしょう
植村さんは常々、「生きて帰ってこそ冒険だ」と言っていたそうです
それが最後には自然に還ってしまいました。
生きて帰るもちろん、そう思っていたに違い無いですが
山で死ぬ。これも本望ではないかと個人的に思ってしまいます。
マッキンリーの雪の中、43歳のままで
植村さんの遺体は同じくそこに在るのでしょうね。
それと、1年の半分以上も時には1年中不在という植村さんを
影で支えていた奥様にも拍手を送りたいですね